学園長ブログ
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神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと
著者の悟東さんは高野山真言宗の尼僧であり、漫画家でもある方です。厳しい修行もした一方、漫画描く普通の生活者でもあります。その著者が神仏の世界と私たちの世界をつないで、いろいろなことを伝えてくれます。
能力を限界まで使い切ると、もう自分の力では何もできません。次の瞬間は息をしているかわからないと思うほどの極限状態に追い詰めれれます。
日々、自分の中にあるのは絶望感だけ。
それでも、次にやるべきことをやらなければならない。
自分が何一つできないことに、私はうちのめされました。
そうするともうご神仏にゆだねるしかありません。
自分は小さな「我」という器ではなく、あらゆるものとつながって存在できているのだと実感できたのでした。
私は僧侶の修行と一般の方たちの生活はほぼ変わらないのに気づいたのでした。
修行としては社会生活の中で自分を磨くほうがずっと厳しいかもしれません。
まずあなたに知ってもらいたい大切な神仏の力があるのです。
それは、神仏は、あなたが本当は何をしたいのか、どうやって生きていきたいのかを分からせてくれるということです。「自分自身の人生」を歩めるようにしてくれるということなのです。
自分で自分の人生を歩んでいるつもりでも、実際には、他人や世間のために生きているケースもすくなくありません。
実は、周囲の視線を気にしたり、他人の価値観で人生を選んだり、他人との比較をベースにして生きていることも、意外に多いのです。
神さまや仏さまにおまかせして自分のやるべきことをやっていれば、人間が生きて行く上で心配することは何もないとわかってきたのです。
とはいっても、まだアタフタすることもあれば、「どうすればよいのだろう」と悩むこともあります。それでも「何があっても大丈夫」という大きな安心感に包まれるようになりました。
一番の変化は、毎日の暮らしの中に小さな喜びを感じられるようになったことです。
たとえ一時的には望まぬ結果となったとしても、最終的には、あなたが最も成長でき、幸せになれる道へと進ませてくれるのです。
周りにおすそわけできるくらいの幸せを集める秘訣は、まず「小さなおかげさま」「小さな幸運」を精一杯喜ぶことです。
普段私たちはどうしても嫌なことや不満に意識が向かってしまいますね。ですから、毎日、
「新しい一日が始まって幸せ!」と喜び、
「今日もたくさんの幸せに気づきますように」とお願いしてください。
表面だけを見ると、「嫌だ」「大変だ」と感じる出来事も、実は何かに気づかせてくれるため、自分を導いてくれるために起きているのかも・・・・。
「何が起きているのか教えてください」と祈ることです。
どんなに嫌な出来事でも、意味なく起きることはありません。私たちに対して何かを教えるために起きています。
「自分なんかにご神仏のメッセージを受け取れるわけがない」「ご神仏と直接つながれるなんて信じられない」と思っているのではないでしょうか。
それでは、せっかくご神仏と交流できる「心」という窓口と感性があるのに、自分でフタをしていることになります。
あなたは、「何気なく見たり聞いたりした」「たまたま知った」と思っているかもしれません。でも、それらは「偶然」目に止まったり、耳に入ってきたりしたわけではないのです。
通りすがりに聞こえる印象的な会話や、ふと目にした言葉などは、まさにご神仏があなたに知ってほしかったものです。
それで、否応なく気づくようにシチュエーションを用意し、日常にあふれているたくさんの情報の中から、わざわざあなたの心にとまるように特別に届けているものなのです。
そのメッセージが、本当にご神仏からのものなのかどうかを知る「決定打」をお教えしましょう。
それは、その情報に従った時、傷ついたり、苦しんだり、悲しんだりする人がいない、ということです。そして、皆がよくなる方向に状況が動くかどうか、ということです。
自宅で休んでいる時などは、かえって、ボーッとしていたほうがいいのです。いつも頭でごちゃごちゃ考え事をしているから、仏さまや神さまがあなたに一生懸命、サインや情報を送っていても、気づかずに流してしまうわけです。
仏さまが好きなのは、正義より「思いやり」です。自分の正しさばかり振りかざすと、人を傷つけてしまうことがあるものです。神さま仏さまはそこに気づいてほしいと思っています。
「お手上げ状態だ」「私には、もうこれ以上は無理」と追い詰められた時、ご神仏の存在を身近に感じやすくなります。
人生の困難に直面した時、人間の価値観は大きく変わります。
あまりにも大きな試練や苦悩があり、逆境の中でつらい日々をおくらなければならなかったとしたら、それはあなたが価値観を変えるチャンスなのです。
「もうお手上げです」という時ほど、ご神仏という存在とつながり、手助けをしてもらう方向へつなげていく契機になるのです。
でも投げやりな気持ちや、自分にも他社にも批判的な気持ちでお参りに行く人をご神仏は嫌います。苦難が訪れた時、グッとこらえて自力でがんばるのも尊いことです。
けれど、つらい時に「私は大丈夫」と無理に突っ走ると、いつか倒れてしまします。「つらいです」「苦しいです」とご神仏に自分を投げ出せば、そこに新たな道が開けていくのです。
ひとりでいる時に、「もう、あの人なんて大嫌い」「あの人さえ変われば」ともんもんとしてしまうことがありませんか?
まだまだ修行が足りない私には、時にはそんなことがあります。あるとき、「また嫌なことを思いだした」とため息をついていると、お不動さまからこんな言葉が来たのです。
「お前はなぜ、また自分をいじめとるんや。わざわざ嫌な人を心に呼んで、自分をいじめなんでもええやろ」
「頭の中からこの人がきえなくてつらいんです。なんとかしてください。お願いします」
と祈れば、必ずご神仏が引き受けてくださいます。
死とは、その人が残した命がけのメッセージです。
何歳であろうと、どんな亡くなり方であろうと、すべての死に意味があります。
ひとりの人がなくなる時、残された者はみな強烈な学びを得ます。故人は死を通して、大切な学びをあなたに伝えているのです。
「今」というこの時を大事にする生き方が、ご神仏と一番つながりやすいのです。
どんな「今」であっても、味わい尽くし、生き尽くす。
実はどんな願いでも人とのかかわりの中で役立てることができるのです。このように、「お金を得て自分がさらに人の役に立つ」という視点をもって祈ることが、ご神仏にお願いする時のポイントです。
ご神仏には「自分の人生を歩めますように」と祈ってください。
病気には2つのとらえ方があります。
ひとつは自分に対する注意喚起として病気になる場合です。
「改めたほうがいいクセがある」
「ふだん、ないがしろにしているものがある」
と教えるために、病気という現象が起きることがあるのです。
もうひとつは人生の柱となる病気。この場合病気がひとつの課題として与えられたと受けとめ、その中でよりよく生きる道を探っていくと、素晴らしい力が発揮されていきます。
仕事とはそのひとの人生を幸福で満たすものであると思っています。本当の幸せとは、人のために何かをしてあげる中で見つけられるもののようです。
人に尽くすことは、自分に尽くすことと同じであり、誰かのために自分にできることをやることが、自分自身の幸せにつながっているのです。