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学園長ブログ

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アートでゴールを決めたい我が人生(ギャラリー桜の木30周年記念誌へ寄稿)

2015.03.10

二十歳前後の時の私には、とても社会の中に自分の居場所があるとは思えなかった。そんな時代の救いは芸術家としての生き方だった。「○○ばか」と言われるような一途な生き方が好きで、「ゴッホは何故絵を描き続けたのか?」が自分の中では大きな問題だった。私の中にある、行き場所のないエネルギーと会話をしてくれるのはゴッホの情熱だったのかもしれない。芸術家になれるとは思わない。だが大学の中で一番多く絵を観た人間にならば成れるだろう。我武者羅に展覧会や画廊を回った。ただ偶然目に入った広告やたまたま出合った画廊を巡った。

そんな折り棟方志功が亡くなり回顧展が開かれた。板画の前に釘付けになった。自分の奥の奥に眠っている自分でも知らない生命力が沸き上がってくるのを感じた。こんな人がいるのか、こんな仕事があるのかと思った。志功の絵の描き方は人間離れして見えた。天からのメッセージが志功を通って紙に描かれている。それ以来、目白にあるアトリエにクロッキーを描きに通った。ただ自分で描いているだけ、誰の批評もなければ師もいない。スケッチブックを手に電車の中で、街で、歩きながらもクロッキーを描いた。

現実の社会に適合出来なかった私の怒りと悲しみは婆娑羅大将が、安らぎは弥勒菩薩が受け止めてくれていた。婆娑羅大将を弥勒菩薩を板画にした。志功のように板に目を近づけ彫刻刀を走らせた。その頃は四畳半のアパートを借り「夢中庵」と表札を出し、ひたすら描いた、彫った。四畳半は木屑だらけで寝袋で寝た。

でも私は版画家には成らなかった。

一浪して電気通信大学に入学し、1年も経たず退学した。また1年浪人し、横浜国立大学の教育学部哲学科に入学。卒業間近になって美術科に転部したいと相談すると、あと2年追加になると言われた。

教員免許もとれていた。

私は教師の道に進むことにした。5年、5年は何も考えず教師をする。本当に芸術の道に進みたいなら5年後も気持ちは変わらないだろう。

1年目にして私は教師の道にはまっていた。楽しくてしょうがない。それが私の教師生活1年目。ところが、2年目は1年目にかなわず、3年目は2年目にかなわない。50歳に成った頃の私は何をしているだろうと思いを馳せるが、そこに希望は見えなかった。

まだクロッキーは描いていた。恐ろしいことにバレエも習っていた。そこで出会う貧しくも情熱のある彼らに私の人生は負けている。

自分で決めた5年目を過ぎ、6年が経った時、教師を辞めた。

版画家と結婚するつもりでいた妻は「やっとその気になったの」と反対はしなかった。その言葉のありがた味は当時の何倍も今感じている。

色々な仕事をしてみたが、どれも鈍臭い。教師であった自分にできることは子どもを教えることだけだと分かった。小さな、生徒4人の塾を始めた。遊びと勉強を教える塾だ。幸いなことに電話がなる度に生徒が増えた。公団の自宅で始めた塾は実家の部屋からテナントへとヤドカリのように変わっていった。

教師を辞めて30年以上経った今、小さな塾は小学校にまで育った。

何年か前、柳画廊さんに出会い、広田稔さんのバレリーナを描いたクロッキーを買った。昔の自分の気持ちを忘れないようにという気持ちがあったのだと思う。自分の原点を忘れないように飾り、毎日観ている。1枚本物の絵があると同じ部屋に印刷物は飾れなくなった。2枚目は画廊をしている友だちからシャガールを買った。ギャラリー桜の木さんに出会ったのはその後だ。好きな絵には出会えても、買いたい、自分の家に飾りたいと思える絵にはなかなか出会えないでいた。桜の木さんは私の求めるものが全てあるような不思議な場所だ。作家と話したいという私の長年の思いも叶い、行く度に欲しい作品があって困る。

芸術家にならなかった私がこれからできることは、芸術と芸術家のために何かをすることだと思っている。私は今、作品を作るように学校を作り、会社を作っている。私にはこの道が合っていた。天職だと思う。私のこの天職を生かして何ができるのか。毎日語り、思いを巡らせている。

学校に本物の絵や彫刻を飾る。当たり前のように飾る。美術館よりももっと当たり前に飾る。ある時は子どもが絵に語りかける、絵は毎日子ども達を見守っている。

芸術家がもっと生きやすい世をつくろう。誰よりも情熱をかけ生きている彼らがリスペクトされる世の中を。芸術家が生きていける方法を学べる学校もつくろう。

今ビジネスの世界にいる私を生かして何かができる。残された人生はきっとそうしよう。